2011年10月16日日曜日

乱読のすすめ11-渡辺尚志「百姓の主張」




   先日、JA(農協)の役員の方とお話をしていたら、つねに生産者を犠牲にしてきた歴代政府の農政について、「俺たち百姓をばかにするにも、ほどがある」と、きびしく批判され ました。

    百 姓という言い方が、力づよくて、かっこいいなとおもいました。

   百姓は、もともと中国から伝わった言葉で、たくさんの姓をもつ者=民衆一般を意味しました。
中世の頃から民衆の本分は農作であるとされ、江戸時代になると百姓は農夫の呼称となったようです(伊藤東涯「農ハ百姓ノコトナリ」)。


   江戸時代の身分制度の影響もありますが、明治以降は、近代的な新産業に従事するものは先進的で、旧産業の農業は後進的といったおかしな考えから、百姓を侮蔑する風潮が拡大していきました。ただ、野口雨情の民謡「働け働け」「伊奈波音頭」などをみると、食をささえてくれている「お百姓さん」への敬意は失われていなかったようです。

    戦後は、民主化や土地改革の影響からか、百姓は差別的呼称としてマスコミなどではあまり使われなくなり、農民が通称となりました。世間一般でも、通常、「お百姓さん」と呼ぶことはあっても、百姓と呼び捨てることはなくなりました。
   ただ、当時者が使う場合はべつのようです。農家をしている妻の実家では、いまでも義兄たちが、ある種の誇りをもって、「百姓というのは…」と自分たちのことを呼びます。

   いま、日本の農業を破壊するTPP(環太平洋経済連携協定)参加に反対するたたかいが正念場をむかえています。そのなかでお会いする農家の方々は、みなさん元気で戦闘的です。

   ところで、昔の「お百姓さん」は、歴史ドラマなどで描かれるように、圧政に逆らわず、ただ我慢してくらしていたのでしょうか。

   実はそうではなかった。

    「むしろ歴史の歯車は自己主張し、たたかう百姓たちのエネルギーによって回された」―渡辺尚志(一橋大学教授)の「百姓の主張―訴訟と和解の江戸時代」(柏書房)は、わたしたちの常識をくつがえしてくれます。

   渡辺教授は、史料にもとづき、江戸時代の房総半島の一農村(現在の千葉県茂原市)でおこった事件のてんまつを追いながら、モノをいい行動する百姓たちの姿を生き生きと伝えてくれます。
   村で「選挙」があったこと、百姓一揆というのは現代でいえば「非合法デモ」で、ユニフォームも統一されていたことなど、興味はつきません。

   百姓という言葉には、国の食を守ってきた人々の自負とたたかいの歴史が刻みこまれていたのです。