2011年11月3日木曜日

人生は酒と本2-「社会派」杜甫と、「酒飲み」李白




   中国の二大詩人、杜甫(とほ)と、李白(りはく)の、どちらがお好きでしょうか?

   「どちらも、知らない」、 という方のために、少しだけ解説を。

   ふたりが生きたのは、8世紀前半の唐の時代。

   杜甫は、民衆の苦しみを詩によむなど、「社会派」的なところがあり、技巧も質実でした。

    有名なのが、「春望(しゅんぼう)」

   国(くに)破れて山河(さんが)あり 城(しろ)春にして草木(そうもく)深し…


  また、「石壕(せきごう)の吏(り)」という作品では、村人を徴兵しようとする役人と、あらがう老婆のすがたを描写し、戦乱にあえぐ民衆の怒りを代弁しています。

  それにたいし、李白は、自己中心的ですが、豪放な詩をのこしました。お酒が大好きで、長安時代には酒を歌った詩が多いことから、楽天的で酔狂(すいきょう)な人物とされています。

  中国でも日本でも、李白より、誠実なイメージの杜甫のほうが、人気は高いようです。


  わたしは、李白のほうが好きです。おなじ、お酒好きだからではありません。

  杜甫が「社会派」というのは、ほんとうか。仕官の夢かなわず、最後まで不遇の人生だった杜甫。かれが「社会派」だったのは、民衆をおもう気持ちからというより、自分自身の世の中にたいする不平不満が根底にあったのではないか(ちがったら、すみません)。

  その点、李白のほうが、万事明るく、さばさばしています。


              「月下独酌」
            (わたしの勝手な意訳です)

  花間一壺酒  独酌無相親  挙杯邀明月 対影成三人  
     花にかこまれ、酒びんをかかえて、ひとり酌んでいる。ほかには、誰もいない。
  月が出たので、乾杯。月と、自分と、自分の影の、三人になった。

 月既不解飲  影徒随我身  暫伴月将影  行樂須及春  
  だが、月は酒が飲めぬし、影もわが身につきまとっているだけだ。
  まあいい。しばらく、月と影とを友にして、春のさかりを楽しむことにしよう。

 我歌月徘徊  我舞影零乱  醒時同交歓  醉后各分散  
  おお、わたしが歌うと、月が天を歩きまわる。わたしが踊ると影も乱舞するではないか。
  もっとも、酔っ払って、寝ちまったら、みんなバラバラ、どこかに消えて行く。

 永結無情遊  相期獏雲漢  
   それもいい。 しがらみのない友情を結び、はるか銀河の彼方で、いつか再会しようではないか。


 
   宇宙と戯れる孤独な李白に、杜甫にはない、「人間確立」を感じます。