2011年12月22日木曜日

乱読のすすめ35-司馬遼太郎のよみかた









    友人 「NHKのテレビで、『坂の上の雲』をやってたね…」
    わたし 「小説のほうが、もっとおもしろいよ」
    友人 「えー、司馬遼太郎なんか読むの?」
    わたし 「だいたいは読んだけど…」
    友人…( ちょっと、白い眼 )
    わたし…(読みもしないで、その眼はなんでっか?)

    「坂の上の雲」に代表される、司馬遼太郎の歴史解釈、いわゆる「司馬史観」は、いままで左右両陣営から批判の的になってきました。
   「司馬史観」の特徴は、かんたんにいうと、日露戦争以前の日本を積極的に美化し、日露戦争後の朝鮮、中国侵略の約四〇年間を暗黒時代としてあつかっていること。

    天皇制絶対国家による近隣諸国への侵略的性格をもった日清、日露戦争を単純に「祖国防衛戦争」と位置づけることは無理があり、その後の四〇年の侵略戦争が明治期と断絶したものだったというのも不合理です。

    いっぽう、日本の侵略戦争を否定したい「靖国派」は、「司馬史観」が日露戦争後の朝鮮、中国大陸への進出を批判していることが気に食わない。かれらにとっては、あれこそ「祖国自衛」のためのやむにやまれぬ戦争だったのに、というわけです。

   「司馬史観」について、大いに議論して、批判すべきは批判すべきでしょう。
   ただ、司馬遼太郎はあくまで小説家です。合理主義を標榜(ひょうぼう)しながら、不合理な歴史観を展開したところに、皮肉と人間味があって、まことに小説家らしい。
 
   だからこそ、司馬遼太郎の描く人物像は文句なしにおもしろいのです。幕末ものだけでも、「竜馬がゆく」の坂本竜馬、「跳ぶが如く」の西郷隆盛、「世に棲む日々」の高杉晋作、「花神」の大村益次郎、「燃えよ剣」の土方歳三、「峠」の河井継之助。そして、「坂の上の雲」の秋山真之、児玉源太郎。どれも、人間の有り様を語っています。
   「史観」うんぬんだけで「レッテル」をはり、読みもしないでおしまいにするのは、あまりにもったいない。

   とくに政治は、立場がちがっても、文学や芸術にたいし「レッテル」をはってはいけないとおもうのです。